スタッフ紹介

総院長 柔道整復師
河原 龍秀

好きなスポーツ | 柔道(六段)、ゴルフ |
---|---|
好きな食べ物 | カレー、ステーキ、ラーメン |
施療の心がけ | 丁寧さ |
好きな言葉 | 自他共栄(自分も他人も共に栄える意) |
業歴 | 24年目 |

院長 柔道整復師
寺尾 俊彦
こんにちは。院長・柔道整復師の寺尾俊彦です。
私は名古屋で生まれて名古屋で育ちました。
子供の頃から人の体のつくりや運動指導の仕事に興味があり、高校卒業後はスポーツトレーナーの養成校に進学し、ライセンスを取得してからトレーナーの仕事に従事していました。
トレーニングを行うのは健康な人だけではなく、腰痛など痛みの緩和を目的にトレーニングを行う人もいました。
痛みに困っている人を見ていく中で、「もっといろいろな人」を治せるようになりたい、と思い、治療家としての道を進む事を決めました。
柔道整復師の専門学校では、覚えることが多く大変でしたが、柔道の精神を学んだり、一緒に勉学に励んだ仲間との出会いもあって、とても貴重な時間となりました。
資格取得後は接骨院に勤務し、患者様の施術を行いながら、地域の方へ体操教室も行っていました。
そうした活動を続けていく中で、高齢者の健康維持には筋力が必要だということを痛感し、自分の知識と経験を活かし、自身の幅を広げるため、高齢者の運動指導をするために介護施設に転職しました。
柔道整復師は接骨院だけではなく、病院や介護施設でも活躍する場があり、介護施設では「機能訓練指導員」として利用者様の生活をよくするための運動メニューを考えたり、生活動作に即した運動指導
なども行います。健康になる事で活動量が増え、生活が良くなっていくところにやりがいを感じていましたが、
「自分は施術がしたい」という想いが日々強くなっていき、テラピストという会社に出会い、現在に至ります。
入社してからは施術の技術だけではなく、柔道整復師の心構えや柔道整復師の社会的な役割は何か、柔道整復師としての在り方など、多くの事を学ばせていただいています。
私は施術を行う上での心がけは「患者様の気持ちに寄り添う丁寧さ」を大切にしています。
患者様は心身共に辛く不安も大きいと思います。安心して施術を受けて頂けるように、原因を分析した上で説明を行い、施術を行います。
一人でも多くの患者様に良くなってもらえるように、一生懸命施術をしていきます。
宜しくお願いします。
私は名古屋で生まれて名古屋で育ちました。
子供の頃から人の体のつくりや運動指導の仕事に興味があり、高校卒業後はスポーツトレーナーの養成校に進学し、ライセンスを取得してからトレーナーの仕事に従事していました。
トレーニングを行うのは健康な人だけではなく、腰痛など痛みの緩和を目的にトレーニングを行う人もいました。
痛みに困っている人を見ていく中で、「もっといろいろな人」を治せるようになりたい、と思い、治療家としての道を進む事を決めました。
柔道整復師の専門学校では、覚えることが多く大変でしたが、柔道の精神を学んだり、一緒に勉学に励んだ仲間との出会いもあって、とても貴重な時間となりました。
資格取得後は接骨院に勤務し、患者様の施術を行いながら、地域の方へ体操教室も行っていました。
そうした活動を続けていく中で、高齢者の健康維持には筋力が必要だということを痛感し、自分の知識と経験を活かし、自身の幅を広げるため、高齢者の運動指導をするために介護施設に転職しました。
柔道整復師は接骨院だけではなく、病院や介護施設でも活躍する場があり、介護施設では「機能訓練指導員」として利用者様の生活をよくするための運動メニューを考えたり、生活動作に即した運動指導
なども行います。健康になる事で活動量が増え、生活が良くなっていくところにやりがいを感じていましたが、
「自分は施術がしたい」という想いが日々強くなっていき、テラピストという会社に出会い、現在に至ります。
入社してからは施術の技術だけではなく、柔道整復師の心構えや柔道整復師の社会的な役割は何か、柔道整復師としての在り方など、多くの事を学ばせていただいています。
私は施術を行う上での心がけは「患者様の気持ちに寄り添う丁寧さ」を大切にしています。
患者様は心身共に辛く不安も大きいと思います。安心して施術を受けて頂けるように、原因を分析した上で説明を行い、施術を行います。
一人でも多くの患者様に良くなってもらえるように、一生懸命施術をしていきます。
宜しくお願いします。

好きなスポーツ | スケートボード |
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好きな食べ物 | 和食、煮物、ミスタードーナツ |
施術の心がけ | 患者様の気持ちに寄り添う |
好きな言葉 | 基礎 |
業歴 | 15年目 |

柔道整復師
大場 健登
こんにちは、柔道整復師の大場健登です。
私は愛知県豊田市で生まれた後、幼少期は3年間、アメリカで過ごし日本に帰って来てからは東郷町で育ちました。東郷町は自然豊かで名古屋も豊田市にも近くとても良い町です。
中学校から野球を始め、野球を通じて基礎の大切さ、チームワークの重要性を学びました。
今も休日に地元で草野球をやっています。
高校生の頃、怪我をしてしまい野球が思ったようにできない苦しい期間がありました。
その時、接骨院で柔道整復師の先生に親身になって施療してもらい、また野球ができるようになりました。今まで怪我によって野球ができない事がなかったので、不自由なく野球ができることのありがたさを知ることが出来ました。
そのような思いから自分も怪我で苦しんでいる人の力になりたいと思い柔道整復師を志しました。
米田柔整専門学校に入学し、1年生の授業で講師をしていた河原総院長と出会いました。学校では、上肢の柔整理論を教えて頂き、授業の中で卒業後の柔道整復師としての人生のやりがいや臨床での経験のお話は多くの学びがありました。
いつしか、先生のような柔道整復師になりたい、と思うようになり野球に打ち込んでいた情熱を柔道整復師の勉強に充てていきました。ただ柔道整復師の国家試験は広範囲の知識が求められるため膨大で、人生で一番勉強しました。
しかし試験に落ちた時の不安を考えるよりも受かった後の楽しみの方が勝っていたので、大変な勉強も乗り越えられたのだと思います。
就職活動の時、再びご縁があり河原総院長の接骨院に見学に行かせて頂きました。その際にスタッフの先生一人一人が患者さんと真摯に向き合っている姿をみて自分もそうなりたいと思い、株式会社テラピストへの就職を決め今に至ります。
患者さん一人一人に丁寧に向き合い、信頼してもらえるような施術家を目指していきます。どうぞよろしくお願いします。
私は愛知県豊田市で生まれた後、幼少期は3年間、アメリカで過ごし日本に帰って来てからは東郷町で育ちました。東郷町は自然豊かで名古屋も豊田市にも近くとても良い町です。
中学校から野球を始め、野球を通じて基礎の大切さ、チームワークの重要性を学びました。
今も休日に地元で草野球をやっています。
高校生の頃、怪我をしてしまい野球が思ったようにできない苦しい期間がありました。
その時、接骨院で柔道整復師の先生に親身になって施療してもらい、また野球ができるようになりました。今まで怪我によって野球ができない事がなかったので、不自由なく野球ができることのありがたさを知ることが出来ました。
そのような思いから自分も怪我で苦しんでいる人の力になりたいと思い柔道整復師を志しました。
米田柔整専門学校に入学し、1年生の授業で講師をしていた河原総院長と出会いました。学校では、上肢の柔整理論を教えて頂き、授業の中で卒業後の柔道整復師としての人生のやりがいや臨床での経験のお話は多くの学びがありました。
いつしか、先生のような柔道整復師になりたい、と思うようになり野球に打ち込んでいた情熱を柔道整復師の勉強に充てていきました。ただ柔道整復師の国家試験は広範囲の知識が求められるため膨大で、人生で一番勉強しました。
しかし試験に落ちた時の不安を考えるよりも受かった後の楽しみの方が勝っていたので、大変な勉強も乗り越えられたのだと思います。
就職活動の時、再びご縁があり河原総院長の接骨院に見学に行かせて頂きました。その際にスタッフの先生一人一人が患者さんと真摯に向き合っている姿をみて自分もそうなりたいと思い、株式会社テラピストへの就職を決め今に至ります。
患者さん一人一人に丁寧に向き合い、信頼してもらえるような施術家を目指していきます。どうぞよろしくお願いします。

好きなスポーツ | 野球 |
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好きな言葉 | 百聞は一見に如かず |
好きな食べ物 | からあげ |
施術の心がけ | 信頼をしていただけるような施術 |
業歴 | 4年目 |

鍼灸師
加藤 紗彩
こんにちは、鍼灸師の加藤紗彩(かとう さあや)です。
私は愛知県あま市で生まれ育ちました。
特技はバスケットボールで小学三年生の頃から始めました。
今までどんな習い事をしても続かなかった私でしたが、はじめて興味をもったのがバスケットボールでした。
小学生のころは県大会に出場することが目標のクラブチームで3年間バスケットをし、6年生の時にはキャプテンを勤めました。
中学生はもっと上のチームで上手い子たちが集まり全国制覇を目指す中学校のバスケ部に入部しました。
そのため中学生の時は休みがなく、毎日部活をしていたので、ケガをすることが増えました。接骨院や整形外科に通ったり、特に部活のトレーナーさんにお世話になる事が多かったです。
そのときトレーナーさんに初めて鍼を打ってもらったときに鍼灸師という職があることを知り、私もケガで困っている人たちの力になりたいと思い鍼灸師を目指しました。
鍼灸の専門学校では覚えることが沢山あり大変でしたが、大学の時とは違い、年齢層が異なる色々な方々の意見などが聞けて、多くの事を学びました。
勉強は得意ではありませんでしたが、ほとんど毎日学校に残り、夜遅くまで友達と一緒に勉強し鍼(はり)師、灸(きゅう)師の国家資格を取得しました。
鍼灸で人の身体を良くするということと、手技や物理療法で身体を良くすることは、手段は違うけれど結果は同じということにも興味を持ち、現在、河原総院長の下で学んでいます。
今まで知らなかったことも沢山知れて毎日が学びです。私自身も沢山ケガで悩み辛い思いをしてきたので、その時の経験や今まで学んできたこと、テラピストで新たに学べたことを活かして患者様の身体の悩みを解決し、ここに来てよかった、先生に施療してもらえてよかった、と少しでも思って頂けるように全力で頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。
私は愛知県あま市で生まれ育ちました。
特技はバスケットボールで小学三年生の頃から始めました。
今までどんな習い事をしても続かなかった私でしたが、はじめて興味をもったのがバスケットボールでした。
小学生のころは県大会に出場することが目標のクラブチームで3年間バスケットをし、6年生の時にはキャプテンを勤めました。
中学生はもっと上のチームで上手い子たちが集まり全国制覇を目指す中学校のバスケ部に入部しました。
そのため中学生の時は休みがなく、毎日部活をしていたので、ケガをすることが増えました。接骨院や整形外科に通ったり、特に部活のトレーナーさんにお世話になる事が多かったです。
そのときトレーナーさんに初めて鍼を打ってもらったときに鍼灸師という職があることを知り、私もケガで困っている人たちの力になりたいと思い鍼灸師を目指しました。
鍼灸の専門学校では覚えることが沢山あり大変でしたが、大学の時とは違い、年齢層が異なる色々な方々の意見などが聞けて、多くの事を学びました。
勉強は得意ではありませんでしたが、ほとんど毎日学校に残り、夜遅くまで友達と一緒に勉強し鍼(はり)師、灸(きゅう)師の国家資格を取得しました。
鍼灸で人の身体を良くするということと、手技や物理療法で身体を良くすることは、手段は違うけれど結果は同じということにも興味を持ち、現在、河原総院長の下で学んでいます。
今まで知らなかったことも沢山知れて毎日が学びです。私自身も沢山ケガで悩み辛い思いをしてきたので、その時の経験や今まで学んできたこと、テラピストで新たに学べたことを活かして患者様の身体の悩みを解決し、ここに来てよかった、先生に施療してもらえてよかった、と少しでも思って頂けるように全力で頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。

好きなスポーツ | バスケットボール |
---|---|
好きな言葉 | 成るように成る |
好きな食べ物 | ハンバーグ |
施術の心がけ | 気遣い |
業歴 | 4年目 |
柔道家・柔道整復師になるために
生まれてきました。
はじめまして、総院長の河原です。
当ホームページを訪れていただき、誠にありがとうございます。
私は祖父が柔道家で柔道整復師、父が柔道家(幻のモスクワ五輪代表)、母が柔道整復師の家系の長男として生まれました。
幼い頃は、体が弱く、いつも両親に心配をかけている子どもでした。
季節の変わり目には必ずといっていいほど風邪をひき、小児科の通院の常連。しかも小児ぜんそくを患っていたので、吸入器は手放せないほどお世話になっていました。
そんな私も幼稚園の年長に入った頃から実家にあった柔道場(河原道場)で柔道を始め、次第に体が強くなっていきました。中学生の頃には父の厳しい指導のもと初段を取得。高校生では参段にまでなり、自信を深めていったものです。
大学は父の母校ということで当時、日本一であった明治大学へ進学。右をみても左をみても全日本や世界、オリンピック金メダリストなどが顔を揃え、しのぎを削っていました。私などの名古屋の田舎者は最初、全く歯が立たない始末。
しかし、人の環境適応とはおもしろいもので、3年生からは全日本学生柔道優勝大会(団体戦)の選手メンバーに入れるようになり、4年生では寮長としても生活面から後輩の面倒をみるようになり、いつしか主将、副主将と共に部をまとめる存在になっていました。
そんな私でしたが、稽古での無理が祟ったのか卒業時にはケガで満身創痍の体となっていました。そこでこれ以上の柔道生活を断念。しかし、何とかこの経験を活かせないものかと考えた結果、親の勧めもあり、ケガや痛みを手当する側の柔道整復師を志しました。
それまで柔道ばかりしていたので、専門学校時代の勉強は苦労しましたが、運良く周囲の優秀な友人に恵まれていたので、一緒に勉強して国家試験はストレートで合格。そして何よりもクラス全員で合格を手にしたのが嬉しかったなぁ。当時、級長なんかもやっていましたから。
柔道整復師になってからも大変でした。研修時代は朝から晩まで働きづめ。朝は開院準備、施術、昼休みに勉強会、午後の施術、片付け、そして自主的に施術のトレーニング。そんな毎日を過ごしましたが、やりたい仕事をやれている実感と柔道で養われていた精神力のおかげで、人が苦と思うことも苦と思わないようになり、いつしかそれを楽しむことも身につけていきました。
研修期間を終え、いざ開業しようと考えていた頃、母校の米田柔整専門学校に「教鞭をとってみないか」と誘われ、迷いましたが、これも何かの思し召し。「今しかできないこと」と思い受諾。教育者として後進の指導に当たりました。
教員時代は楽しかったなぁ。とても感じのいい、やる気のある学生たちに恵まれ、毎日が忙しくも充実した日々でした。この教員時代の10年間はわが人生の春を謳歌したものです。
しかしながら、そんな春はいつまでも続かないものです。自分の心の中で押さえつけていた熱い気持ちが燃え上がったのです。
「私は柔道家・柔道整復師になるために生まれてきた」
そんな強い衝動に駆られ、接骨院の現場でお客様に施術することが柔道整復師の本分と考え、また柔道家としては柔道教室を興し、子どもたちに柔道指導することを使命に感じた私は平成25年5月に中川区高畑に「高畑駅前接骨院」と「河原道場高畑キッズ柔道教室」を開設、次第にお客様が増え、一接骨院では見きれないほどの人が来られるようになり、柔道教室も地域の方々に支えられ、子どもたちもたくさん集まってくれました。*柔道教室は高畑でみれる人数を超過したため、令和元年4月より安全面の配慮から実家で南区にある創設67年目の「河原道場」へ移転して「高畑」と「本家」を一本化し、同時に父より道場主を引き継ぎました。(祖父から数えて三代目)
私は柔道家として、柔道整復師としての仕事に、強い使命感と深い誇りを持っています。施術家歴24年以上の施術力とプロを15000人以上、育ててきた指導力で「新栄町接骨院」にご縁を持った皆さまの施術にスタッフ共々あたります。元気に、活力ある毎日を提供したいと思っています。
どうぞ、よろしくお願いいたします。